2005/12/07

追憶の調布関東村(終)さよなら関東村

by サカタ@カナダ

94年春カナダに渡ることを決めた私は、キノコ隊長らと相談して当時仕事をなくしていた年下の友人をあとがまに推挙し、教育実習や研修ののち無事彼が調布基地関東村後継警備員と決まりました。



引き継ぎの日。関東村構内、飛び地、府中基地と彼を案内し、私は仕事のあれやこれやを説明しました。3年前に隊長が自分にしてくれたことと同じことをしている。ビコの世話もよろしく頼んだよ。


あの時と違うのは、廃墟の解体が進んで環境が激変し、キノコ関連で申し送ることがほとんどない点でした。隊長が教えてくれた倒木や切り株はみな土に埋められ、20年間落葉で理想的なコンディションを保っていたアミガサタケの苗床も、キャタピラに踏まれて消えて。

この関東村自体がなくなり大学が建てられることも、すでに決まっていました。関東村跡警備事務所の最後はこの後継青年が、97年に見届けてくれたのです。



最後の勤務日、私は事務所を掃除しながら、いろいろなことを思い出していました。

冬、極寒のプレハブ事務所でやかんの水が凍りついたこと。暖を取ったドラム缶の焚き火。

事務所でいつも読んでいた新聞の競馬記事。上京した父親と見に行ったジャパンカップで、天皇賞に続くオグリキャップの惨敗に落ち込んだこと。

そして有馬記念の翌日に読んだ高橋源一郎の史上最高の競馬コラム

湾岸戦争の報道を朝まで事務所で見続け、翌日書物を買い込み勉強したこと。

晴れた冬の日に見える富士山。場内いちめんの新雪。雪上に残る侵入者や犬の足跡。





夏は夏で事務所内が耐えられない温度になり、隊長が大工となってブレハブの周りに日よけを作ってくれたこと。ロビンソン・クルーソーみたいな彼の手により、孤島の粗末な事務所に家具や調理台が作り付けられ、文化生活指数が向上したのだった。



しかし水が足りず菜園作りには失敗(↑)



警備犬ビコが森の中を駆け巡る姿。カミナリが鳴るとおびえる彼を事務所に入れてやらねばならず、犬臭さに閉口したこと。

追いかけまわした悪ガキやサバイバルゲーム集団や恐怖のボクサー犬使い



飛行場側の、今はもうないだろう美しい桜並木。まるで恐竜の化石のようだった、エノキが出る倒木。

不法居住者の寝ぐらを見つけてしまったこと。彼に荷物をまとめさせゲートまで送り退去させながら、俺はまるで権力の犬だぜと落ち込んだこと。

  



巡回の合間にNHKラジオ英会話を聞き込んだこと。覚えた英語が訪ねてきた関東村旧住人を案内するのにちゃんと役立ちうれしかったこと。プールに連れていくと誰もがオーマイゴッドと、懐かしさに身悶えして喜んでくれた。


子供の頃暮らしたという棟を一緒に探し当て、そのベランダに立つ写真を撮ってあげた女の子のこと。いいの? 本当に? 家族に見せるわと喜んでいた金色の髪のシスター。

不規則な生活と、今思えばちゃんと料理しとけよ俺と思うような貧しい食生活に、体調を崩しがちだったこと。

そして大規模な解体が始まった93年、コンクリート塵に満たされ終末が見えてきた構内で、バンドもなく文筆の道も切り開いていけない自分の力のなさに悄然としていたこと。あてもなくただ、コンピュータと英語のスキルを身につけようとしていたのだった。


場内に残り最も破損の少ない建物だった幼稚園で(Kindergarten)。



長いこと世話になったな、関東村よ。ここに残っていてくれて本当に助かった。おかげで3年間ハッピーに暮らしてこれた。旅行をできたのも、自転車を買えたのも英語を覚えられたのも、みんな間違いなく関東村のおかげだ。本当に感謝するよ。

そしてビコ号と共にもう一度ゆっくりと時間をかけて構内を巡回してから、私はゲートに鍵を下ろしました。

私が関東村や府中基地に寄せる思いは、Chofu.org に集う人々や、立川基地で泣いたおじいさんたちと同じ種類のものでしょう。遠く、手が届かないゆえに強くこがれる気持ち。―――1・2・3・4、3・2・1・0。俺の気持ちは変わらないよ。前より君を思っているよ。俺は今でも宿なしだ。今現在も関東村にはいくつかの建物が残っているらしいことをネットで見つかる写真で知った私は、その写真を夜中に見つめているのです。

(終わり)



 (調布基地隣接サッカー場, 1990)

(2021/04/22)90年代に弟が撮った、お前こんないい写真あるならもっと前にくれよという旧米軍基地跡の写真が送られてきて全ページに追加加筆。



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追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

15 件のコメント:

  1. 懐かしい想いで読ませていただきました。ピコ号って言うんですね、あの時の犬。こっそり忍び込んでパチパチ写真を撮っていたとき、そうそうあのシアタールームのあたりでした。「こら!」と言う声に驚きプールサイドに逃げたものの大きなシェパード?が追いかけてきました。無我夢中で謝ることすらできず、かみ殺される!と必死でフェンスに飛び登って間一髪、犬にかまれずすんだあ!あなたと二言三言問答したのち「ごめんなさい」と言い残しフェンスを飛び降り逃げました。あののち三鷹美術館での個展も無事成功におわり、写真家の仲間入りもできました。「ONCE UPON A TIME」戦後復興のかげにシンボリックな残骸としての米軍基地跡地を撮りつづけてきました。不法侵入という無謀を覚悟でしたが、あの時の「犬にかみ殺されてても文句は言えない」事件?が今にして思えばのちに撮影の節度を身につけたきっかけです。
    こんなところでその時の人に会えるなんて驚きです。「その節はご迷惑をおかけして、逃げてしまいすいませんでした」一言お詫びが言いたくて書き込みしてしまいました。では・・・

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  2. ビコ号は中型の雑種で、人なつこすぎて決して人を噛んだりはしない奴だったのですが、きっと追いかけられるスリルから匿名さんには彼が血に飢えた狂犬に見え、私が鬼の追跡者に見えたのでしょう。はは。このいにしえのご縁から、ご活躍をお祈りしております :-)。

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  3. 本日の昼間、府中市美術館(ご存知無いかもしれませんが)に出かけたのですが、入り口の前から、金網の向こうに見える、朽ちた建物に目を奪われ、金網越しに周りを一周してしまいました。帰宅してから、ネットで調べ、今日見て回った場所が、府中基地の跡だという事を知りました。廃墟についてまとめたサイトなどを見ながら、こちらにたどり着いたのですが、大変興味深い内容で、夢中になって読ませて頂きました。僕も、食い詰めたバンドマンだった(今も?)ので、他人事とは思えず、こんな仕事に、僕も出会いたかったなあ、なんて思いました。素敵な思い出を、お持ちですね。

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  4. お言葉をありがとう yamazaki さん。すべての売れないバンドマンに廃墟警備仕事を! ギブ・バンドメン・ア・チャンス&ガードマンジョブ!

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  5. こんにちは。はじめまして。
    今、多磨墓地前駅(現在は多磨駅と名前を変えました)に住んでいます。


    東京外語大になった今でも、関東村の木々たちは残っています。(だいぶ伐採され整備されてはいますが)
    お知らせしたくて、お写真を載せてみました。

    http://ameblo.jp/mixrelax/entry-10554320371.html

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  6. サカタさん、こんにちわ。調布市在住40数年の者です。最近、調布は連続ドラマの舞台になり、全国的に脚光をあびるかと思いましたが、そういった事もなく相変わず淡々としています。これまで「関東村」のことは記憶の底の方にあったのですが、貴兄の記事を拝読し、なるほど!と思った次第です。府中も含め、今でも面影がのこるというか、先行きの決まらぬ場所が多々散見されます。それにしても、面白い!90年代初期の調布飛行場北方面の空気がジワジワと。それと往年の関東村の同期生がアメリカで集っていたり、その当時の写真などは非常に面白く、この調布にリアル・アメリカン60’sライフがあったなんて想像も出来ませんでした。う~~~~ん。近々にカメラを持って旧関東村近辺をフラフラしてみたいと思います。いい!素晴らしい!

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  7. LINDA3さん、コメントをありがとう。写真家のようですね。僕は今でも調布府中(とそこに連なる三鷹、吉祥寺、武蔵境)が世界で一番好きな場所ですので、あの三多摩のいい写真が撮れたら見せていただきたいものであります。

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  8. Thank you for posting these images. I lived on the Kanto Mura Family Housing Annex from 1970-1974 when I was a very young child. The photos of my former childhood home are both sad and interesting.

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  9. Thanks for your comment, Pamela. You should really go to www.chofu.org where I borrowd all those old images from.

    All of my 5 "Kanto Mura" articles here are about the days I spent there as a safeguard in 1990s. Kanto Mura and Fuchu Base had been abandoned ruins for already 20 years or so then (Chofu later became an university place after I left).

    I had quite few former-resident visitors asking for letting in, and although I didn't have any authority to do so I did let them in anyway. And they all expressed exactly the same feeling that you just wrote, "sad and interesting". A Japanese word Natsukashii (bringing back memories) is more right on spot I suppose.

    I worked there for 3 years and had plenty of free time between patrols, so I used that time to selfstudy English. That's why I can read and write English now. I'm all thankful to Chofu Kanto Mura!

    Tomo Sakata

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  10. こんにちは
    私は調布と府中のお隣に住んでいます。楽しく読ませていただきました。ざんねんですが関東村では最後の伐採が終わりました。味スタ横は東京オリンピックの施設になります。変わってしまいますね。
    でも、府中基地はまだ残ってますよ。ゲートの隣にできた屋内プールからは、緑に覆われた給水塔が見えます。私は親子で度々パラボラさんに会いにゆきます。相変わらず廃マニアさんも頑張っているようですし(^_-)-☆
    ショッピングモールになるとか、研究施設が入るとか、何度も話が出ては消え・・・
    でも、あの猛々しい緑とたくさんの鳥たちを、もう少し眺めていたいですね。

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    1. おお府中は健在ですか。廃墟マニアと警備員のたたかいは今も続いているのか(笑)。ああまた行きたいなあ、外からは見えない花々が咲き誇るあの府中基地と、春の東京競馬場に。

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  11. はじめまして。私は60年代終わりから70年代終わり頃にかけて、”多磨墓地前駅”付近に住んでおりまして、子供時代を関東村と共に過ごしたのですが、その当時を思い出しながら、大変興味深く読ませて頂きました。今思えば2両編成だったレトロな車両や駅前が、アメリカ人で賑わっていたと言う光景はとても不思議です。

    ふと思い出して ”関東村” で検索していたところサカタさんのサイトに辿り着いたのですが、それもビックリで、
    実は80年代初期サカタさんがいらしたバンドさんのライブには何度かお邪魔しております。そして今現在カナダのアルバータ州に住んでおります。

    偶然が重なったもので、嬉しいやら、懐かしいやらでコメントさせて頂きました。

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    1. ◆匿名さん@アルバータ
      多磨墓地前駅という名も、いま強烈にノスタルジックです。記事中の警備犬ビコ号をいいところだから一度くらいはと思い警備車に乗せ府中基地に連れて行ったことがあるのですが、甲州街道から行くと白バイに捕まりそうだなというプロ警備員ならではのポリスなカンが働き、裏道である多磨墓地前を通って行きました。ところが車に乗ったことがないビコ号は途中でパニックになり、キャインキャインと騒ぎ運転する私の膝上に乗り上がってくるのです。

      多磨墓地前駅の踏切を超えたあたりでこれはいかん死ぬと路肩に寄せ、ビコを降ろしお前落ち着け大丈夫だと諭しました。二度ほどそうやって休憩してようやく府中基地に着いたのだったかな。スピードの高い甲州街道を行かなかったのは、ポリス上はともかく安全上命拾いでした。ビコは見知らぬ府中基地のパトロールを楽しんでくれましたが、二度はやる気がしなかったな(笑)。

      しかしネットを探すと関東村や府中基地に米軍が駐屯していた時代の写真がちらほら見つかりますが(やはりアメリカのサイトに多い)、その頃を知る方が私のバンドを見ていて、いま同じカナダに住んでいるという偶然の重なりは驚きですね。この記事を書いたのも、当時私が捕まえた廃墟カメラマン氏の写真を見つけたからだったしな。ネットは偶然の不思議なつながりを、まるで答え合わせのように「実は…」と見せてくれることがある。

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  12. 2006年頃に一度読んだことがありましたが、久しぶりに再度読みました。なんとも表現しがた気持ちが込み上がってきてコメントしています。素敵な文をありがとうございます。

    1970年代、小学生だった私 (今、だいたい50歳)は九州にある似たような米軍の住居を目的もなくよく探検していました。それはちょうど関東村と同じようなものでした。自分が通っていた学校に隣接していて、フェンスの向こうには主人を失い朽ち始めたものの、外国に行ったことのない小学生には十分すぎるほどのエキゾチックな風景 (しかも無人の風景) が広がっていました。警備員に見つかって追い出されたることも数度。広大で林も多く見通しがきかないのに、何故かよく見つかったものです。

    あのような場所、風景は、戦後のある限られた一時期だけに出現したものだったんだとサカタさんの文章を読みながらその偶然性をかみしめています。もうその場所は公園や学校になり、わずかな木々と特徴のある道路の配置と湾曲ぐあいだけが、当時を知るものだけに記憶を呼び戻す痕跡となっています。

    だからどうなんだ、と言われてしまえばそれまでなのですが、共有できる人も殆どいないもので、つい書き込んでしまいました。ネットのある時代に生きていてよかったな、なんて思ってしまいます。素敵な記録をありがとうございました。

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    1. ――わあ。「にっぽん縦断こころ旅」の手紙みたいだ。すてきだ。
      思わずツイートしちゃいましたよ、ありがとう。とーちゃこ!
      https://twitter.com/tomosakata/status/608734092742426624

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