2011/05/11

日記「福島にふくしまにふくしまに」

「信じる気持ちは揺らいでいる」「不良男子賛美ドラマはもういい」「パワートゥザピープル」―――《俺は生まれた長野須坂に自分を置いてきたような気はしないが、東京には相当量を置いてきたと実際思う》

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■11/04/29(金) □ 信じる気持ちは揺らいでいる
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 福島の小中学校での被曝限度を巡り大変な論争になっている。20ミリは多すぎると告発してやめた学者の言葉は重い。

 「校庭に8時間立っていても年間20ミリには達しないという基準なので、教室内にいる時間のほうが長い子供の実際の被曝量は大幅に小さくなる」という政府の説明はわかるが、「大幅に」「見解の相違」などという定量化できないことを言うから議論が噛み合わない。根拠と自信があるのならば、「1年間通学し、1日1時間校庭にいたらこうなる」と数字を出し明確につよく反論すればいいではないか。それがなければ親はなにも判断できず、不安と怒りをつのらせるだけなのだ。

 それに、福島および近県産の食材を食べてくれ、給食にも使おうというのも難しい話である。農薬ですら子供の口には入れたくないと努力している母親が多いというのに、「汚染はちょっとだから放射能入りの食べ物を買ってくれ、買わないのは風評被害です」というのは無理がある。納得した大人だけが食べるならまだしも、給食というのはあんまりだ。

 普段高額な有機食材を買っている人々は、「より安全で倫理的なものが買えるならお金は惜しまない」という方向で物事を考える。今はこうした消費者と同じ考えを適用し、原発被災地域の農家の経済損失は国が補償し(つまりお金は惜しまず)、放射能が検出されない/無視できるほどに小さい地域の食材を逆に原発被災地域に送り、国民全体が摂取する放射能量を少しでも減らしてほしい。減らせば減らすほどいいことに間違いはないのだから。被災地域の農業を救うために放射能を我慢しようというのは共倒れ政策である。

 日本政府が事実を過小評価し、手遅れの政策をやっているとする悲観的な考え方はつらすぎるので俺は絶対採りたくないのだが、信じたいという気持ちは常に揺らいでいる。

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■11/04/30(土) □ 不良男子賛美ドラマはもういい
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 TV Japan で映画「ルーキーズ」。TV版も見てなかったが映画も同じような話であり、途中で見るのをやめる。映画が作られるからにはTV版は大ヒットだったのだろうが、日本のこの不良男子賛美は、舌足らず女子偏愛とつがいの嗜好なのだろうな。こないだ見たドラマ『迷子』に出てきた、不良だった父親を恐れ家に帰りたがらない男子や、明るくバイトし口が悪く弟を蹴る女子のほうがずっと好ましいと俺は思う。

 TV Japan で「ごくせん1」をやっていた頃は萌も楽しんでおり、それがうちでの希少な日本語ネタになっていたのだが、2、3とあまりにも内容が同じなので飽きて見なくなってしまった(2、3は配役も激しく劣化してたと思う)。それにトドメを刺したのが「ルーキーズ」や「サラリーマン金太郎」と続いた血ドロドロ路線で、結果として萌の日本語TVワッチ習慣が完全に途絶えてしまい現在に至る。一緒に見られる日本ドラマが枯渇して本当に困っている。

 萌が見たい―――というか今でも見せたら見そうなのは、TV Japan でやったものでいうと「ケンジとヤスコ」「怪物くん」などの学園モノなわけで、血ドロドロばかりじゃなくああしたローティーン向きコメディをやってくださいと TV Japan にメールを送ってみよう。別にジャニーズが出ていなくても古いものでも構わないので、軽快でコミカルな日本の番組をやってくださいと。

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■11/05/04(水) □ パワートゥザピープル
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 原発補償による東電の値上げ見込みに対し、激しく批判が起きている。日本は電気だけではなく、全部の公共料金が高い。カナダから日本に行けば成田から長野の実家に辿りつくまでに交通費で1人百ドル以上が吹っ飛んでしまう。車に乗ればガソリン代より高速料金のほうが高い。家中を無駄に温めているカナダのセントラルヒーティング家屋より、人がいる部屋だけをミニマムに温める日本のほうが光熱費が高い。電話代も放送受信料も高い。

 震災以降の日本はこうしてガラリと、公共料金や政治や企業やマスコミに対し厳しい目を向ける国に生まれ変わったのは明らかで、それだけはよいことだ。一昔前ならこうした大きなものへの怒りは自分の身の回り以外に伝わらなかったのだが、いまや人々の怒りが即座にコネクトし、そこに十分な駆動力があれば共振して世論となり影響力を持つメカニズムも完成している(エジプトを見よ)。

 むろんネットだけではなく日本全体が、ささいな失敗でも袋叩きに遭う「つるし上げ社会」になっているという嫌な面も当然あるだろうが、つるし上げる対象選択とそのアゲ度合いに対してもネットによる批判=ならし効果は働くのであって、徐々に適切で効果的になっていくのではないだろうか。パワートゥザピープル、ライトオン。

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■11/05/05(木) □ 福島にふくしまにふくしまに
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 NHKで猪苗代湖ズのビデオクリップを見て、各都道府県代表ピープルがほんとに歌ってるんだ、そしてその声が入ってるんだと気がついたら、涙がポロポロ出てきた。下手うたは人の心を打つ。

 日本の都道府県はどこも素敵だ。俺はボンビーかつ物欲に弱い(ゲームやガジェットへの出費過多な)奴だったので日本国内でも行ったことがある場所はそんなにないけれど、バイクや軽自動車にテントを積んで巡った日本のあちこちの海山町は、ほんとどこも思い出深い。

 弟とバイク合宿をした箱根・伊豆、何十回走ったことかわからない奥多摩有料道路と近くの村落、日光から群馬伊香保へ抜ける途中のどこかで見た美しい田園風景(当時は銀塩カメラすら持ってなかったのが口惜しい)、隅々まで走りまわった信州各地、Mを連れて今だに語りぐさになるくらいいい旅をした岐阜、福井、京都。東北には行ったことがないのだが、どれほどいいところなのかは想像にがたくない。福島の素晴らしさは友達に何度も聞かされた。

 住&育児環境のいいカナダに住んでることにはほんと感謝しているけれど、ああした日本の町をもう旅できないということはとても悲しい。日本の山の緑は豊かで、町は自転車で用事が済むコンパクトさで雑然と作られ、1つ1つに個有の味がある。カナダ(といってもBCとノバスコシア州だけですが)を旅しても、あとから追憶に胸を掴まられるようなことが俺はないのだ。その理由を明確には言えないのだが、カナダ人にはキヨシローの歌のよさがわかってもらえないように、俺にはカナダの本当のよさがわからないのだろう。

 福島に、ふくしまに、ふくしまに、置いてきたんだ、本当の自分を。俺は生まれた長野須坂に自分を置いてきたような気はしないが、東京には相当量を置いてきたと実際思う。バンドもあれ以来できないし、英語ではもともと乏しい自分の言葉の半分くらいしか表せないし。

 俺は―――サンボマスター山口もおそらく―――、置いてきたことを後悔しているわけではない。だけどときどき振り返ると、悲しみは襲ってくるのである。

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