2011/07/28

習作のアリエッティ

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■11/07/19(火) □ 習作のアリエッティ
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送ってもらった「借りぐらしのアリエッティ」をついに見る。アリエッティたちの生活を描く前半は、子供の頃に読んだこのテのファンタジー(木彫りの人形が夜動き出すとかの欧州童話に俺も萌えた)をジブリが高品質映像化してくれた、ありがたいありがたいと実に楽しい。人物や猫の動きに「非純正宮崎アニメ」的違和感は感じるが(人がステップ数細かくコマ落とし的に動くのがヘン)、俺ごときがこれと指摘できるほどの大きなものではない。宮崎監督が絵を描かなくてもこれほど気持ちのいい絵が延々と作り出せるのだからジブリはたいしたものである。ジブリの蓄積技術がすごいとも言えるし、宮崎駿はすでに学び写し取られる古典技法になったのかもしれない

【以下ネタバレです】前半の屋内冒険シーンには何度も巻き戻し絵の1枚1枚を味わうほどワクワクさせられたが、しかし映画コピーが「人間に見られてはいけない」であるにも関わらず開始3分でアリエッティが見つかってしまい、次の冒険で再度確認されるというバタバタな拙速感をはじめとして、ストーリーには終始ウーム感がある。やがてドールハウス押し付け、ハルさんの暴挙、アリエッティお母さんの無力といったドタバタが続くあたりは、「こりゃ宮崎監督はがっかりしたろうなあ」としか感じなくなってしまった。後半のほぼ全てがウームという感じ。俺だけではなく、萌もウームという顔をしていた。

見終わると萌は「あのドールハウスに住むっていうハッピーエンドにしてほしかったのにー」と不満を述べる。「だけどまあハルさんがいたらあの家にはいられないからねえ」と答えると、「ハルさんなんかクビにすればいいじゃない」という。そりゃそうだよな。家の主が3代にもわたり小人を待ってることを知りながら、メイドが害獣駆除業者を呼んでしまうという行動は馬鹿げている。その理由すらわからない。翔が小人を見つけたことにハルさんが気づくあたりからしてすでに俺も萌も、そんなわけないじゃないかと非合理性を強く感じていた。こういう明らかなご都合主義は楽しさを削ぐ。樹木希林の声も樹木希林すぎてゲンナリさせられる。身を捩るシーンは「寺内貫太郎一家」になっていた。
追記:《ハルさん(家政婦)は若い頃小人が借りていったせいで盗人疑惑をかけられ、一緒に働いていた人はやめさせられてます。という背景がある故の行動であることが端折られているので悪者のように見える》というツイートを後日発見。見たものにこうして大きな違和感を残す描写の責任って、ジブリの場合鈴木プロデューサーにあるんじゃないのかな。違うのかな。(11/12/17)

アリエッティ母のパニック無力足手まとい人物造形もほとんど醜悪と言えるほどで、彼女がハルさんに捕まったことすら、ドールハウスの食器を持ち出そうとした愚かさゆえとして描かれている。宮崎監督が描いてきた強く聡明な女たちの正反対だ。張りのある大竹しのぶの声ともひどく合っていない。トトロのメイと同じ役割だが、これを大人にやらせるのは不愉快である。このお母さんはジブリ映画登場人物で初めて、世界に出したくないなと思った。千尋のお母さんもひどくてMに不評だったが、あれは現実にいるお母さんだ。

結局宮崎駿の後継者は、ジブリからは出てこないんだな。天才は天才の弟子になんかならないのかもしれない。これは秀才である弟子が作った、ロボット兵や猫バスなどオマージュにあふれた「古典技法・宮崎駿」の習作であり、製品版としては完成していないのだろう。

しかし見終わってから調べると、脚本は宮崎駿だという。ええっ? どういうことだ?

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ショックを受けつつ考える。アニメーションは優秀だ。誰が見てもこの映画で弱いのは人物と脚本だろう。アリエッティとお父さんだけは歴代宮崎アニメからの借りぐらしなのですんなりシンパシーを感じられるが、翔をはじめとした他の人物には魅力が皆無である(―――萌とMは「君たちは滅び行く種族だ」というあたりで「なんて不愉快な子なの」と声を出していた―――)。そしてシータとロボット兵のあの名シーンのコピーが感動シーンとしてそのまま使われていることが、このストーリーのクオリティを示している。

若手監督にハードワークを委ね、自分は脚本だけに仕事を限定しても宮崎駿はもうこれしか書けないのだろうかと思うとがっくりするものがある。宮崎駿が関わってないのなら上記の通りなるほど習作だねで済むが。

この脚本で前半だけでも楽しめるものを作った米本監督は、むしろすごく頑張ったとさえ思える。こんな自立を求めて旅に出るみたいな結末にせず、萌のいう通りドールハウスに住み幸せに暮らしましたというディズニー的結末にしてしまえばいっそすっきりしただろう。哲学的寓意はジブリ(または日本劇場アニメ全般)の社風だが、このくらいの筋立てでそれを持たせようとする方が不自然だ。「勇気をもらった」とか「君は僕の心臓の一部だ」という言葉には、萌ですら「これどういう意味?」と違和感を表明していた。言葉がまったくリアルに響いてこないのだ。

監督は宮崎監督じゃないよというと、萌は「Thank God! なんでジブリなのにこんなにハッピーじゃなくて悲しいのって思ったよ!」とまで言っていた。まあそんなにひどくはないと思うが、ストーリーは宮崎監督作らしいとは、俺は萌とMに言えなかった。がっかりさせたくなかったのである。

ジブリはもう、若手監督を使うときに宮崎脚本や原案を使うといったことはやめて、作品ごとに外部の優れた才能を探した方がいいのではないか。ピクサーやディズニーみたいに産業化してほしいわけではないが、ジブリに物語を書く才能が生まれてこないのなら仕方がないではないか。そういうクリアーな割り振りができないジブリの鈴木敏夫プロデューサーという人も、実のところなんの仕事をしてるのか、なんらかの能力があるのかどうかよくわからない人である。

毎年夏向けのメイン部門はそうして合理化した上で、宮崎監督には隠居仕事をやってもらえばいい。締め切りや長さ規定を設けず彼のアニメ的イマジネーションを発揮してもらえば、今でも「ハウル」や「ポニョ」のように興奮を呼ぶ映像ができるだろう。

萌は「実は私、ポニョもあまり好きじゃないの。キュートだけど、なんか感動しなかったの」と言っていたが、あの謎だらけのストーリーでは当たり前だ。しかしNHKでポニョのストーリーに苦悩する宮崎監督というドキュメンタリーをやっていたように、時間とストーリーテリングの制約は間違いなく大きい。この映画だってそうである。「毎年夏にジブリ映画」という時間の制約があるから米本監督は死にそうになってやっていた。米本監督にはより優れたストーリーテラー脚本家を与え、宮崎監督には時間を与えてほしい。たとえ意味がよくわからず謎だらけでも宮崎駿の新しい映像は一も二もなく見たいし、間が開いてもいいからいつまでも作ってほしいとファンは願っています。

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翌日、
今回の作品は宮崎監督が企画・脚本、監督は新人の米林宏昌が務めた。だが周知の通り、宮崎駿は映画を作るときに脚本を必要とせず、直接絵コンテを描きながら作り込むという作風だ。今回の“脚本”という役割も、大まかなプロットを監督に口頭で伝える程度だったのではないかと想像する。すると監督の役割は、宮崎駿の与えたイメージを膨らませ、大まかだったキャラクタに肉付けする作業になる。これがどうにもうまく行っていない。
という詳しい人の評を見つけた。宮崎監督の関わりがこの人が言うように、「大まかなプロット」程度であってくれたならいいのだが。

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