2012/02/12

日記「カナダのTVを見ない俺」

「ニューヨークで歌謡曲なら」「『カーネーション』を語ること」

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■12/02/02(木) □ ニューヨークで歌謡曲なら
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【SONGS「由紀さおり in ニューヨーク」】日本のバーブラ・ストライザンドと紹介されていた。そうかなあ(笑)。まあいいけど。「マシュケナダ」「PUFF」と洋楽の日本語カバーが続き今ひとつ面白くないなと思っていると、ドドンパ・ドン。ドドンパ・ドンというイントロで「ブルーライトヨコハマ」。これはよかった。これって和風ラテンソングだったのね。

洋楽カバーなどやらず、こういうのばかりで「日本歌謡曲名曲スーパーパック」みたいに歌いまくってほしかったな。美空ひばりとかやったらアメリカの聴衆は、すげえヘンなメロディだ! と心地よいショックを受けただろう。日本にだってもうないメロディなんだから。しかし美空ひばりは由紀さんの声に合わないか。ならば「日本のバーブラストライザンド・由紀さおりサン!」と紹介されたら天童よしみが出て行って美空ひばりを歌えばよかったのだ。たぶんバレなかっただろう。顔は似てる。


そうだ、こういうのをニューヨークでやってほしかったな、由紀さん。「胸の振り子(サトウハチロー・服部良一・昭和 22 年)歌:Ann Sally」。桑田佳祐が昔歌ったのを聴いて、なんちういい歌だとびっくりしたのです。こういう歌を発掘して紹介してくれるといいんだけど。

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■12/02/06(月) □ カナダのTVを見ない俺
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萌はここ1年ほどで、カナダの子供向けTVに加えMが見る大人TV番組にもガッチリとはまってしまい、こうなると俺とゲームをしたり音楽をやったりする時間がまったくなくなってしまう。冬は雨ばかりでスポーツも一緒にやれんし、一緒にやることは「桜蘭高校ホスト部」を見るだけだ。昔は TV Japan でローティーン向け番組もたまにやっていたのだが、もうまったくないしな。「ルーキーズ」などの血だらけ熱血を見せても意味ないし。萌に「カーネーション」を見せてやりたいなあと思っては、無理だよなとあきらめている。

 Mも萌もすごい長時間TVを集中して見ているが、俺が「なになに?」と身を乗り出しTVを眺めてしまうような高笑いや嘆声はさほど漏れ出てこない。笑いだけならば萌も、「桜蘭高校ホスト部」を見てる時のほうがずっと大声で笑うと思う。2人に「カーネーション」を見せてやれたらなあと口惜しい。「カーネーション」は明らかにドラマというか映像表現の最高峰で、これほどのものが週6回放送されるなんて世界でも類がないだろう。

 しかし延々と続くオフィスや家庭での会話で構成されたカナダのドラマに俺が興味を持てないように(本当に米加ドラマの連中はよく喋る。時間ごとのテキスト量は日本のドラマの4倍くらいあると思う)、日本的機微といわく言いがたい表情演技のみで構成された「カーネーション」を萌とMに楽しんでもらうのも、たとえ字幕があっても無理だろうなあ。

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まあ俺がメンタル的にカナダ人となりカナダのTVを見て談笑するほうが生活態度としては合理的なのではあるが、それはカナダ暮らしの初年度から数年で無理とわかってしまった。「フレンズ」「サードロック」「70's ショー」などあの頃Mと一緒に見た人気コメディは面白かったけれど、飽きた。「ノースオブ 60」などのシリアスドラマは、ユーモアがなさすぎて見ていられなかった。

あの頃「フレンズ」を数シーズン見ただけで、俺はもう一生分の米コメディのお笑いパターンを見終えたと思う。笑いが入ってくる角度が毎度同じなのだ。笑いがあさっての方向から入ってこなければ、腹を抱え涙を流すなんてエクスペリエンスにはならない。新たな面白さなど米コメディ番組には登場しないだろう。

日本の人でも、もともと米コメディやドラマが好きで英会話を習い移住したような人ならばそうしたものを飽きずに楽しめるのだろうが、俺はロックと英語自体が面白かったから勉強しただけで、カナダに来るまでそうした番組を見たこともなかったしな。


これぞ斜めから入ってくるお笑い動画
それらを見飽きた頃に折よく(?)俺はインターネットと NHK (TV Japan) が手に入ったわけで、それ以降時間を割きカナダTVを見るモチベーションが持てません。すんません。しかし笑いならばネットの5秒の猫動画の方が実際パワーがある。「猫と和解せよ」ページもすごかった。こういうのを見つけるたびに萌に見せて、共に大笑いしている。現状萌とはこうして、「桜蘭高校ホスト部」や猫動画で付き合っていくしかないよなあ。

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■12/02/08(水) □ 「カーネーション」を語ること
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『サリエリの独り言日記』というサイトの「カーネーション」思索が秀逸で面白くてずっと読んでいる。そうだそうだと腑に落ちることばかり書いてある。

それにしても、糸子の相手役周防の人物像は、他のどれもはなはだハッキリしたキャラクターに比べて、最初からずいぶんボヤかした描き方をしていましたね。(中略)これは糸子の目、あるいは心象風景を通した周防像なのだと。糸子の心にはこのように記憶され回想されているのだ、ということなのでしょう(「なぜか「朝ドラ」が面白い! 35」)。


というあたりを俺も強く(そしてそのことを気持ちよく)感じており、『お父ちゃん、勘助、泰蔵にいちゃん、勝さんの顔が画面をよぎるだけで、見ているこちらの胸も本当に疼く。泰造兄ちゃんなんていつも道具をかついで横切るだけだったのに、こちらは糸子と奈津を通して見ているから存在自体が自然発光していたのだよなー』と書いていた。「カーネーション」の美しい映像は、糸子の目から見た活き活きとした時代の輝ける岸和田なのである。

「カーネーション」は常に解釈を求めるドラマで、答えは提示されていない。だから自分がどう感じたかを言いたくなるし、人の感じ方を聞きたくなる。そこここに散りばめられたキーワードやサインを共有することも大事な儀式となる。ツイッターがその役を果たしていて大盛況なのだが、サリエリ氏はその気持ちを「臨調感」という言葉を使って解き明かしている。

映画やドラマによくある回想シーンとか、フラッシュバックがここにはないでしょう。それらは安直に多用すると、観るほうの視座を主人公の目線から、不意に客観的な神の座へ引き上げてしまい、かえって臨調感を失わせるのです(「使ってはいけない」ということではありません。使う必然性が充分練り上げられているなら、それはそれで「手法」になり得る。肝心なのは、ひとえに作り手側の明晰な問題意識でしょう)。

同じような事柄で、すでに死んだ父善作や勘助が、主人公に(夢の中で)語りかけたり、遺影が動き出したりということもない(いずれも、よく使われる手法です)。善作の遺影は遺影のままであり、それがどう見えるかは、「今、その場にいる糸子」とそれに同期した目線の我々の「想像力」だけに由っている(丸投げされている)。だからこそ、毎日毎日「ああでもない、こうでもない」という口コミがネットで絶えないのでしょう。

 この口コミの多さこそ、このドラマのもつ「臨調感」の証左なのです
。なぜなら、私たちの住む「現実世界」とは、まさしく「ああでもない、こうでもない」の世界であって、あらかじめ決まりきった予定調和で進んでいるわけではない、一寸先が誰も分らないからこそ、「ああでもない、こうでもない」となるのですから。これって、震災と原発事故以降の先の見えない日本の現状の気分とも同期していますね。(10:太字=引用者)


俺たちは物語のその場に居合わせ、そこにいる人たちと同じ気持ちを味わうという体験をしているのである。幸せなシーンでは本当に楽しく、つらいシーンは苦しい。だからそれを喋らずにはいられない。この体験を家族と共有できないのがつらい(笑)。



「カーネーション」本編はいま、創造的バイタリティの塊である次女と、それに脅かされる長女を巡り物語が展開している。糸子は流行をはずしたという失意の失敗談が挿入されただけで、背景にずさーっと下がってしまった。『糸子が三姉妹の背景へと徐々に下がっていく。先週までは糸子交代なんてとんでもないと感じていたけれど、寂しいが人生はこういうもんかもしれないと説得されてしまう』とツイートしたが、サブキャラとして頑固親父となった糸子には案外善作ほどのスルメ味はなく(それがお父ちゃんの貫禄というものか)、糸子自身の魅力もくすんで見えてしまい寂しい。しかしこれさえもが意図的なものだろうとサリエリ氏は分析する。

ここ最近以前のような感動がない、といった書き込みが感想欄に散見しますが、それはたぶん糸子の眼から例の七色の涙が見られなくなったからでしょう。波乱万丈の前半生、しかも戦争を潜り抜けた四十数年間となれば、人間大抵のことには驚かなくなる。尾野さんはそうした年齢相応の人物像を、ごく自然にそのまま演じているわけです。(44


そうかもしれないな。だがまあこれだけですんなり後を引き渡し糸子@尾野真千子が終わるなんて誰も思ってないわけで、最後の輝きがどんなものになるのか、それはすごいことになるだろうとかたずを呑みつつ、いまは誰もが子供らの活躍と苦闘を楽しんでるわけです。

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